■著者略歴はなんのため
おはようございます。本多泰輔です。
風薫る五月ですね。
今回は、ただでさえ長いこのメルマガ(前回は私が関与しなかったので短かったですが)に、二つのテーマを収めようという過激なチェレンジでございます。
まずは、テーマその1、著者略歴またはプロフィールについて。
私も随分書きましたね、これ。そしてけっこう間違えました。
なにしろ他人の略歴だから、本人しかわからないのですが、略歴の校正はだいたい責了直前の納期の差し迫ったタイミングでやるもんですから、タイトロープなんですね。
そして、著者本人もなぜかあんまり一所懸命見てないし。
そんな微妙な位置にある著者略歴。
では、一体何のためにあるのでしょうか。
1.読者にとっては、どんな人が書いたのかを知るため。
2.著者にとっては、自己紹介。
そして、
3.出版社にとっては、売るため。
出版社にとってプロフィールは、本を買ってもらうためにあるのです。
■プロフィールの書き方
ビジネス書は専門書ですから、読者には著者の経歴も見て納得して買ってもらわなければなりません。
「タイトルは“手に取るようにわかる”だの“3分間でわかる”だのけっこうインチキくさいけど、これは商業主義の出版社がやっていることで、著者は信頼が置けそうな経歴だから読んでみよう…」と。
よって、経歴はそのテーマとシンクロナイズしていなければなりません。
プロフィールは字数に制限がありますから省略していいのです。つまり、テーマに関係ないことはあえて落とし、テーマに関して実体験豊富な人物であることを強調するわけです。
ちと具体的に書きましょう。
マーケティングの本を書くならば、販売のキャリアと実績を強調することが大事。新入社員のときに人事に配属されたとか、ローテーションで一時秘書室にいたとかいうのは、履歴書に書くことで著者略歴には必要ありません。
生まれた年は、どの本にも普通載っていますから、テーマとは無関係ですが記載しておきましょう。
ただし、極端に若い、または老齢という場合には、あえて記載しないこともあります。読者が「著者が若すぎると信頼感に欠ける」逆に「老齢だと話が旧いのではないか」と要らざる疑心を抱かせる恐れがある場合です。
例えば『社長の人生訓』という本の著者が、若干二十歳の青年であったり、『最新ITネットマーケティング』の著者が古希を過ぎた人だったら、販売力に翳りが生じると営業サイドは懸念します。
こういうケースのときには、編集者は著者略歴から生まれた年を故意に落とすのです。もちろん著者にはあらかじめ了解をもらいます。
女性の著者の場合は、ほぼ自動的に生年月日を秘匿するので、ほとんど記載されることはありません。
写真もかるく10年は過ぎてるだろうというのを堂々と載せ、本が出来た後に著者が版元に挨拶に来たら、だれが来たのかわからなかったということも多々あります。まあ、ジェンダー的特権ですね。
■略歴はプロモーション
最終学歴も、本当はあってもなくても関係ないのですが、あるのが一般的です。
実際のところ読者も編集者も、何年生れか、どこの大学の何学部出身かには、あまり関心を払いません。たいていテーマと無関係ですから。
まして出身地がどこかなど、たまたま同郷でもなければ、紙面上の模様に過ぎません。
読者が読んだ本で忘れるのは、
1.出版社
2.著者略歴
3.値段です。
1、2はそもそも見てない場合も少なくありません。
※本多周辺人物15名の調査による
ちなみに忘れない順番は、
1.厚さ
2.読んだという事実
3.著者名
4.タイトルの順でした。
すぐに忘れられるとはいえ、略歴は大事です。略歴は「どこでなにをしてきたか」という来し方の記録ではありません。
「わたしはこのテーマを書くためにこのようなことをしてきた」という、読者に対する表明なのであります。いわばプロモーション。
編集者相手にだってプロモーションは効果を発揮します。ただ、プロフィールはあくまでプロフィールなので、過度に仰々しい、異常に長いのは避けたほうがよいと思います。
下心の存在を感じさせない、品良くコンパクトでありながら主張すべきは主張するというのがよろしいかと思います。
以上、プロフィールの書き方でした。
■ビジネス書の「わかりやすさ」とは
ここからいきなり「わかりやすさ」にテーマが変わります。われながら見事に統制のとれた文章量配分とほれぼれしてしまいます。
で、「わかりやすさ」とは、読んでわかったからわかりやすい、その逆はわかりにくい、私も含め一般的にはこんなもんじゃないでしょうか。
個人の属性に判断をゆだねている以上、「わかりやすさ」の基準を一般論化することは不可能です。
なので、そういうややこしい場所には近づかず、ビジネス書の世界の特殊性に絞ってお話します。
「ことを分けて話す」ということばがありますね。わかりやすく諄々と説明するというような意味で使われます。
「わかる」というのも漢字をあてると「分かる」「解かる」と書きます。つまり「分解」ですね。
物事はいろんなものが複雑に絡み合い、連携しているからわかりにくいのであって、一つ一つの要素に分解すればわかりやすいという思想(あるいは体験上の知恵)に拠っています。
西欧科学はこの方向で進歩してきたのですね。
これが説明なり解説なりの科学的、一般的なアプローチです。
ところが、ビジネス書世界では、分解せずに丸ごと理解させる、手っ取り早い「わかりやすさ」が幅をきかせています。ニュートンもびっくり、世にも稀なる驚愕のアプローチです。
■ことを分けない理由
ことを分けて話せばいいのに、なぜあえて掟破りの離れ業ばかりが行われているのでしょうか。
<理由 1>
「ことをわけて」説明するより、全体を丸ごと説明できたほうがとにかく「早くてカンタン」、読者も喜ぶ。
メーカー系のかた向けにいうとNC旋盤で削り上げるより、プレスで一発成型って感じでしょうか。これ譬えです。
読者がビジネス書に求めるものも「早くてカンタン、わかりやすい」ですから、勢い一発成型タイプであるほうが望ましいわけです。
<理由 2>
ことを分けて説明すると長くなるし、面白くない。最初のページを覚えていないと最後の部分が理解できない。教科書っぽい。
<理由 3>
ビジネスは、そのほとんどが人間関係に行き着くテーマなので、ことを分けて進むとこんどは処世術的なテーマや人生観等の哲学的テーマに行き着き、新たにもっと困難な問題につき当たる。
まあ、ビジネス書は底が浅いといってるようなもんですね。いつかビジネス書も深遠なる真実に到達するような名著が出てくるでしょう。ひょっとすると、私が知らないだけですでに出ているのかもしれません。
■譬えのセンスで文章が光る
丸ごと理解させるためにもっぱら使われるのが「譬え」。
会計のことを説明するのに女子大生に事件を起こさせたり、さおだけ屋を登場させたり、これまでにもいろいろ工夫が凝らされています。
身近なことを引き合いに出して「ああ、あれとおんなじことか」と納得してもらうことをねらったものです。良く引き合いに出されるのは、人体、家族です。
「譬え」の次に最近使用頻度が高いのは「図解」。
その次が、昔ながらの「体験談」。
「譬え」はセンスを要します。
よく日本経済を家計にたとえて経済学者が説明しようとしますが、世間離れした彼らはセンスに欠けるため、家計で説明できる範囲を超えて、テーマは国家レベルの問題に話が及びかえって混乱を招きます。
そういう卑近な「譬え」はコンサルタントにまかせ、学者はもうちょっと科学的作法を守って欲しいと思うのですが。
「図解」は分解型ですから科学の世界でもよく使われますが、一目で全体を見渡せるので便利です。
ただし、分解の程度をコントロールしないと恐ろしく複雑な絵となり、飾り模様以上の効果を発揮しないことがあります。
「体験談」は事実であればそれでいいのですが、テーマに合わせるため細部を脚色する場合、とてもウソっぽくなることがあります。
「譬え」「図解」「体験談」は、それ自体「わかりやすそう」なのですが、ねらい通り「わかりやすい」かは、語り手のセンスに負うところが大きいわけです。当然ですけど。
■まとめ
「わかりやすく書くこと」を「わかりやすく」説明するのは難しいですねえ。
要するに
1.いい「譬え」を見つけるセンスを磨こう
2.「図解」の技術も磨こう
3.「体験談」の脚色も練習しよう
ということをその理由から解説しようと試みたわけであります。わかりにくかった方は、これも「わかりやすくしようとして、わかりにくくしてしまった」事例として失敗に学んでください。
・・・ああ、今回も結局長くなってしまいました。
次回の文章講座のテーマは「体験談を書こう」。ただし、もっとよいテーマが思いつきましたら変わるかもしれません。
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