おはようございます。
本多泰輔です。
誰が言ったかは知りませんが「校正おそるべし」。
出版・印刷に携わっている人なら、このことばを実感する場面に年に一度や二度は立ち会っているはずです。気がつけば誤植、振り返っても誤植。
ある意味編集の仕事はこの繰り返しです。気にしてたら身が持ちませんのですぐ忘れますけど、致命傷になることもあります。新聞社でも出版社でも編集の人間に「誤植あったね」と言って、ない!と答える人は10人中10人いません。
10人中9人までは「どこ?」と聞いてきます。
一人くらいは「当たり前よ」と応じる猛者もいるかもしれません。
以前は、本を読みながら熱心に間違い探しをしていました。
このメルマガのように誰が見ても明らかな間違い、「本多」が「本田」になっているようなのはさすがにめったにお目にかかりませんが、こういうのはみっともないだけでむしろ間違いとすぐわかるだけ罪が少ない。
文脈から見分けないとわからないような誤植、「文章の構成はむずかしい」と「文章の校正はむずかしい」、どちらも文字だけ見てたら間違いではありませんから、こういうのが割と残ってしまいます。
しっかり読んでいると??っとなりますが、まあ気にしないで読まれてしまうことが多いので、露見する確率はかなり低い。文庫のような何度も版を重ねているようなものでも、文脈上おかしいのがけっこう残っていたりします。もう著者も他界してどうしようもないのかもしれませんが。
著者のかたも本を書き始めのころは随分校正を気にします。こちらが軽く誤字など指摘すると不相応に感謝されたり、「気がつかなかったなあ」と妙に深く反省の風情を示す人もいます。
著者校正は必ず必要なんですが、大事なことは誤字脱字の発見ではありません。そういうことは編集に任せておけばいいのです。
では著者にとって大切な校正とは?
■校正の責任はだれに
出版契約書を仔細に眺めると必ず校正の責任についての記述があります。
文章と校正責任は著者に属する。
これは古今東西、出版の常識だと思います。
法的にも形式的にも校正の責任は著者にあるのですが、なぜか出版社には校正者もいれば大手には校閲者までいます。法的には逃げていますが、実態として校正は編集サイドの主な仕事です。
だいたい校正ミスで出来する事態は比較的軽いものばかりです。みっともないことを我慢すれば正誤表を投げ込んで済みますし、シールを貼ってしらばっくれることも可能です。
実害といえば余計な出費を強いられることくらいで、編集者も「次からは気をつけろよ」と一言叱責を受ける程度です(会社によって差があるようですが)。
もとより著者がとやかく言われることはありません。出版契約書に校正は著者の責任とあるから、正誤表の経費を支払ってほしいと言う出版社は絶対ありません。
校正の責任は実態として出版社にあるのです。ところが、ことが内容の分野に及びますとそう簡単にはすまない問題が発生します。著者しかわからない部分での問題とは、無断引用、剽窃、著作権侵害、虚偽記載などです。
これはシールを貼って済ますというわけにはいきません。損害賠償、全冊引き上げという深刻な事態を招来することもあります。そして、その責任は著者へ訴求されることになります。
多くの場合、校正ミスというより文章の問題ですね。文章とて編集者がチェックするし、校閲者も見るのですが、専門性の高いことは結局著者に依存するしかありません。
著者にとって文章を再チェックするのも著者校正です。まして、締切りギリギリで入れた原稿だと初校で初めて再確認するなどということもありますね。
ですから、著者校正で一番大切なことは誤字、脱字を発見することよりも、引用部分のチェック(ちゃんと出典を明らかにしているか)、記憶にたよっていなか、記憶に間違いがないか、誰かの文章をうっかり借用していないか、すなわち無断引用・剽窃、虚偽記載、著作権侵害のチェックが最も重要な点です。
編集もこうした作業に全くノータッチというわけではないのですが、門外漢の悲しさでチェックしきれないのです。ゆえに編集も著者校正で、ある程度文章が訂正されて戻ってくることは致し方ないと思っています。
■よろこばれる著者校
編集者にとって著者校が返ってきたとき、あまりに赤字の直しが多いと印刷屋さん(最近はDTP屋さん)の嫌な顔が目に浮かび憂鬱になり、直しがないと「ちゃんと見てくれたんだろうか」と不安になります。
編集者にとってよろこばしいのは、なにはともあれ期日を守ってくれることです。これは原稿と同様。ですから、著者は思い切って直したいところは直してください。
まるっきり初めの原稿と違ったものになるまで直されたら、ちょっと編集者も一言いいたくなるでしょうが、だいたいある程度悲惨な状況で戻ってくることは想定の範囲内です。
期日内に初校で徹底的にチェックしてくれれば文句はありません。著者校は基本的に初校のみですが、最近は図解等文章以外のデータも多いので再校まで見ることもあるようです。
編集者にとっても印刷所にとっても一番困るのは校正のたびごとに新しい直しが大量に出てくること。
どんなことがあっても著者の直しを無視することはできませんので直しますが、次から次へと校正のたびごとに新しい直しがどっと出てくると、正直に言うと「終いにゃ怒るよ」という気分になります。
まあ、できるだけ初校でけりをつけるようご配慮くださいませ。
■致命的な校正
本文中の校正ミス、すなわち誤字脱字というのは読者にもすぐわかってしまうのでもの凄くみっともないのですが、たいていの場合「重版で直します」で済まされてしまいます。
核心の情報に関することでない限り、正誤表を入れることも実際は稀です。かつて、丁寧に本文中の誤植をすべて指摘してくださった親切な読者ハガキを送ってくれた人がおられました。
かたじけないやら恥ずかしいやら、しばらく大事に保管して、誰宛のハガキかは伏せたまま新入社員研修のときの教材とさせていただきました。
そういう軽いジャブのようなダメージの本文中の誤植に対し、一発KOの致命的なミスというのはほぼ表紙関係に集中します。
タイトル(これが違ってたという話は聞いたことないですが)、著者名、定価、コード番号、これら表紙カバーに印刷されているものに校正ミスは許されません。間違えたら即刷り直しです。
出荷していたら(普通出荷前にわかるものです)取次ぎ、書店に頭を下げて回収しなければなりません。でも、けっこうあるんですよ。不思議と。
ページの最後にある奥付にも定価が入っています。奥付の定価は刷り直すことができないので、シールを貼ったりします。書店で本にシール貼ってる変な人がいたら多分そうです。
消費税表示が内税から外税に変わったとき、みんなシールを貼ってましたが、あれは校正ミスではありませんでした。でも中には便乗したものもあったのかもしれません。
もうひとつちいさなものですが、本には注文スリップがはさまれています。ここにも定価、コード、タイトル、著者名が刷りこまれています。書店で売られるとき抜かれてしまうものなのですが、これも間違えたまま流通させることができないので刷り直しを強いられます。
ま、これは安いですけど。
■校正能力は出版社のレベルを示す
ところでさっきから誤字といったり、誤植といったりしていますが、出版・印刷業界では誤字脱字とはいわず、誤植といいます。
植は植字の植、上面に文字が浮き彫りになっている小さな鉛のサイコロを活字といい、これを文章に応じてゲラ箱に並べていく作業のことを植字といいます。
植字を間違えるから誤植。
そういうと印刷所の植字工の人が間違えたみたいですが、現在はデータ入稿ですから植字という作業はありません。活版を知らない編集者のいる時代ですがことばだけは残っています。
校正能力は出版社のレベルを測るバロメーターであるというのは、同業者間ではいまだに残っている感覚です。
ま、確かに目に余るような明快な誤植ばかり出していては、それは確かにレベルを疑われることになりますけど、それよりやはり売上規模、ベストセラーを出す頻度とか発行点数の多さなどが出版社の企業レベルだというのは、みんなが認めるところでしょう。
でも、出版関係者というのは全員なんか屈折したところを持っていますので、「売上がでかくても本づくりがなってない」などと難癖をつけるのもまた事実なのであります。
■まとめ
余談にばかり紙幅(スペース)を取ってしまい、巷に溢れるブログのようになってしまいました。つまり結論は、著者校正の時には著作権侵害に注意しましょうということだけなんですけどね。
著作権にも有効期限がありますし、他人の著作物には指一本触れられないわけでもありません。実務上肝心なことは、文章中どの部分が引用なのか借用なのか自分で忘れないようにしておくことです。
その上で、法的な白黒は編集者に任せてしまってもかまいません。たいていの場合、その場で編集者が判断できることばかりだと思います。
校正には想い出が多すぎて(ほとんど他人の事件ですけど)、本当はもっと面白いことがあるのですが、書いてるときりがないのでこのへんで。
ではまた来週。
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