おはようございます。
本多泰輔です。
先週、宮澤喜一元首相がお亡くなりになりました。
平成の首相は、これで四人亡くなったことになります。昭和の首相には、まだ意気軒昂の人がいますから、さすがに元軍人は大したものだと思います。
90年代初めの頃のことをあんまり覚えてない若い人には、何だかわかりにくいかもしれませんが、今回は宮澤首相の時代と当時のベストセラーについて記したいと思います。
■崩壊の序曲91年
宮澤首相で思い出すのは、二つ、ひとつは同時期に人気がピークだった宮沢りえのダイハツの軽「オプティ」のCM、「ミヤザワ発言」。
軽自動車はこのころから売れ始めていたわけで、なんだかんだで、軽自動車の隆盛の歴史はすでに15年以上になろうとしているわけです。
5年位前に、もはや軽自動車は普通自動車の代用車ではなくなったと、某シンクタンクの所長から聞きました。
ちなみに写真集『サンタフェ』(宮沢りえ、篠山紀信撮影)は、91年のベストセラーです。
もうひとつは、バブル崩壊後の景気回復の期待を一身に背負って登場した首相であったこと。多分、ご本人もそのつもりであったろうし、ついにエースの登場と国民の期待もかなり高かったと記憶しています。
某金融機関の御大が、「経済通の宮澤さんが総理になったから、これで的確な経済政策が打たれる」と当時のたまっておられました。私もまあ賛同しておりました。
当時、バブル崩壊のショックはあったとはいえ、株価はまだ2万4000円台、いまから思えば十分な数字です。
金融機関は、未曾有の高収益をあげていたし、深夜の新宿、六本木のタクシーは已然、2時間待ちで、タクシーを待っているうちに始発が走り出すこともしばしばでした。
それでも経済政策に景気回復の期待をかけていたのです。宮澤総理も困ったでしょう。国民の欲の皮はどこまでも厚かった。
■巨大な財政赤字の源流
確かに92年から、未曾有の財政出動が行われました。失われた90年代につくった財政赤字のほとんどは、このときの約2年の間につくった借金でしょう。
しかし、相次ぐ不祥事もあって株価は上がらず、92年の夏には一時1万4000円に落ち込んでしまいました。
バブル時に株式投資に励んでいた人は、このころにはすでに顔面蒼白を通り越し、一時的にスイッチが切れていたように見えました。財政出動、要するに公共投資が効かない。何かこの不景気は、これまでのものと違う。
そういう風にみんなが思い始めました。
中公文新書始まって以来のベストセラー『複合不況』(宮崎儀一著)は、そういう92年に登場した本です。みんながこの不況の謎解きをしたがりましたが、決定的な解答は得られません。
実は、まだこの段階では不良債権の実態は明らかにされていなかったのです。『複合不況』は、売れましたが、已然景気は回復しませんでした。
未曾有の財政出動をしたわけですから、その効果がなかったわけではありません。
しかし、公共投資をいくらやっても建設会社を増やすばかりで、結局、地価は上がらず、パソコン以外に動く商品もなく、不景気な割りに円は安くならない、何となく金回りがよくないという感じでした。
日経新聞に連載された『下天は夢か』(津本陽著)が、単行本化されたのも92年でした。
ソフトバンクの稼ぎが雑誌であり、PC関連書籍が書店の三分の一を占めたのはこの頃。日経が雑誌をリストラし、PC雑誌一本に絞ったのは、この2〜3年後だったと思います。
公共投資のお金がどこに行ったのかは知りませんが、企業の設備投資の多くがPCおよびその周辺に行ったことは間違いありません。
そしてこの頃、すでに精神世界、現在ではスピリッチュアルが少しずつ広がりを見せ始めていました。
■とんでも本の登場3年
サブカルチャー本なのか、とんでも本なのか、『ウルトラマン研究序説』(サーフライダーズ著)、『磯野家の謎』(東京サザエさん学会編)など、何の役に立つんだか、という本がベストセラーになったのはこの時代です。
さくらももこのエッセイが、出れば売れた時代もこの頃です。いまは古書店でも見向きもされません。「TV探偵団」なんて番組もあったし、サブカルチャーブームだったのですね。
いまなつかし、大ベストセラー『マディソン郡の(R.J.ウオラー著)も、93年の発行です。わたしは読んでませんが、クリントイーストウッドの映画は観ました。
中高年の恋愛では、キャサリン・ヘップバーン「旅愁」がありますが、あちらは女性の境遇が特殊、普通の田舎のおばさんが都会から来たカメラマンと一時的な恋に落ちるという、好都合でお手軽な設定は、恋愛対象年齢を大きく引き上げました。
思えば、これはシルバー本の走りだったかもしれません。そういえば新聞の活字が大きくなったのも、この頃だったような気がします。
どうでもいいことですが、キャサリン・ヘップバーンが、ハワード・ヒューズと付き合ってたらしいというのは、映画「アビエイター(飛行家)」で知りました。
宮澤元総理は、不況の根本原因が金融機関の抱える不良債権にあることは、就任当時から知っていたといわれています。
まあ、住専やら桃のマークのビルのオーナーやら、色々個性豊かな人が出てきましたし、株価がピークの半値以下になっているわけですから、不良債権があるだろうということはわかってましたが、何しろ当時銀行は、当期利益が抜群に大きかったですから、何年かやっているうちに、不良債権は消えるんじゃないの、くらいに私も思ってました。
大体みなさんもそうでしょう?
不良債権の数字が世間の表に出てくるのは、さらに5〜6年後、どうやら日本のGDPを大きく超える金額らしいと聞いたときは、じゃあ、あの利益は何に使ったんだよう、と思いましたが、給料と退職金とコンピュータ化の設備投資に使われたらしいと聞きました。
利益の理由は、ただ同然の公定歩合と預金金利にあったわけですから、どこに使ってやがんだ、とちょっと腹立たしかってです
■あの時不良債権処理をしていたら
もしあの時の宮澤総理に田中角栄の並みの政治的腕力があって、金融機関の不良債権処理に税を投入して、一気に決着をつけようとしたならどうなっていたでしょうか。
アメリカ、ヨーロッパのように、いち早くバブル崩壊から立ち直ったであろうというのは、少しおめでたい議論ではなかろうかと思います。
恐らくその社会的混乱は、もとより郵政民営化なんかの比ではありませんし、消費税すら可愛いもんです。ロッキード事件も小さい小さい。
あえて探せば60年安保並み、質は違いますが、混乱の程度は60年安保を凌ぐ可能性さえあります。金融機関はつぶれないまでも、社会保険庁なみの処遇は避けられなかったでしょう。行政の担当である大蔵省も無傷ではすまない。
不良貸出先には政治銘柄もあるし、東京地検は特捜部を10コ位増やさなければいけなかったでしょう。政治は改革を通り越して、潰滅に至ったかもしれません。
自民党は、結局下野し、社会党の政権ができたわけですが、あれがもっとラディカルな形で誕生したかもしれません。ほぼ終戦直後並みの状況です。
つまり、失われた10年というのは、あの時やるべきことを、薄めて薄めてやってきたら10年かかった、ということだと思います。
10年ですべてが終わったわけでもないと思いますが、世の中は10年も経てば変ってしまうので、いまや時効の部分も多く残っているのでしょう。
結局のところ、宮澤元総理の判断とはそういうことだったのではないでしょうか。良くも悪くも日本的というか、保守政権らしい対処であったと思います。
小渕内閣で再び蔵相をやった時、7年前に判断した通りにことは進行していると思ったのか、判断を誤ったと悔やんだのか。
■流れが変り始めた
そういう戦前派の急進を嫌うところが、日和見穏健路線と映り、小沢一郎現民主党代表ら戦後に教育を受けた人たちには、受け入れられない部分だったのでしょう。
小沢待望論はこの時期にもあって、「普通の国」といったほうが通りがよい『日本改造計画』(小沢一郎著)は、93年のベストセラーです。いまの小沢党首とは、すこし趣の異なった印象を受ける内容でした。
さて、公共投資の金も底を尽きかけたこの頃、不況の原因がどこにあるにせよ、日本の景気はままならぬ、これも拝金主義の罪と罰、悔い改めるべしとして読者を頷かせたのが『清貧の思想』(中野孝次著)でした。
経済評論家の内橋克人が世の中に支持され始めたのもこの頃だったと思います。
ビジネス書のほうは、再びアメリカの跡を追うことに終始し始め、『マーフィーの法則』は幾分とんでも本の流れを受けるとしても、「リエンジニアリング」関連の本が多数出始めたのが93年の暮れから94年の始めでした。
この流れは、リエンジニアリングの延長線上にある組織や生産システムなどの「革新本」、「ジャック・ウエルチ本」やマルチメディア本、その発展系のIT関連本へと続いて行きます。
そして、外資系の首切りコンサルタントが、儲かり始めたのもこの時期からでした。
宮澤内閣は93年の6月に、内閣不信任案が可決され、総選挙では日本新党が票を伸ばし、一昨年の小泉自民党のように、日本新党であれば当選できたというような勢いでした。この時、自民党の痛手となったのが、政治改革に対するの遅れ。
ですが、不良債権処理と同様、本気で政治改革に取り組めば、それがまた保守政治の急所を突き、従来の政治の枠組みが崩壊するという点では、小沢陣営は攻めても良し、待っても良しという必勝の状況であったのだと思います。
しかし、政治改革といっても、この時は小選挙区制の導入、2大政党による政権交代が目玉でした。
この程度の改革なら、自民党でもやろうと思えばやれたはずでしょうに、政治改革とは党内では別の音に響いたのでしょうか。
当時の国民が改革を望んでいたのは、小沢一郎氏の著書がベストセラーの上位を占めたことでも明らかです。
しかし、その改革の行き着く先にあるものが、保守の崩壊であることを見通していたのは、宮澤元総理だったのかもしれません。
ではまた来週。
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