おはようございます。
本多泰輔です。
日本全国猛暑ですね。
7月までは、今年の夏は猛暑だなんてウソじゃないか、と思っていたのですが、さすが130年の歴史を持つ気象庁にぬかりはありませんでした。8月に入ると隙間なく暑い。
今週は、夏期休暇のかたが多いでしょうから、一週遅れでこのメルマガを読む人も多いかもしれません。それよりも読まない人の数のほうが、多いってことも考えられます。
だれにも読まれない文章を書く空しさを人一倍よく知る本多には、とってもつらい時期です。
あまりいろいろ考えてるとつらくなるので、思いつくままに書こうと思います。まあ、時期にかかわらず思いつきで書いてますけど。
それにしても横綱朝青龍はどこへ行くのでしょうか。
始めのうちはどうでもいいとテレビを見ていたのですが、これだけ連日報道されると気になってしまいます。
これまでにも怪我や病気を理由に、巡業や本場所を休み、海外旅行に行ったりサーフィンしてた人は、横綱にも何人もいたわけですが、今回のような二場所出場停止という重い処分は受けていません(ということまで知ってしまいました。にわか不祥事通です)。
要するに傍から見る限り「またやりやがって。今度ばかりは許さん!」と、これまでの朝青龍の行状を面白くなく思っていた協会が、ついに堪忍袋の緒を切った、という具合に見えます。
処分ってものは、本来ルールに則って行われるべきですが、総意で決められることもありますので、お咎めの程度については(理由によっては)止むを得ないかもしれません。
それにしても、協会はここまで騒ぎが大きくなったら、朝青龍や高砂親方ばかりを悪者にしないで、重い処分を課した当事者として世間の前に出て相応の説明をすべきじゃないでしょうか。
なぜ北の富士、貴乃花はOKで朝青龍はだめなんだと。
それに横綱審議会が朝青龍を横綱にしたわけなんですから、「品格に欠ける」というなら、横審のメンバーをも人を見る目がないということで「人心一新」すべきでありましょう。
相撲協会は、相撲取りの身内の会合ではなく、社会的な公器なわけですからね。社会に対する説明責任は、協会にこそあると思います。
いっしょになって朝青龍と高砂を血祭りにあげる協会とは一体何なのでしょうか。
■何を出してもいい出版
世間には常識というものがありますが、「目からうろこ」の意外性というのは、単行本の魅力のひとつですよね。
新聞や週刊誌、テレビなど、いわゆるマスコミ報道は、スピード命、勢いで流れていきますから、ひとつの論調が成立するとほぼ全体がその流れに沿って報道してしまいます。
本は、他と同じ内容では売れませんから、すこしでも切り口を変え、意外性を演出しようとします。
あえて常識に逆らうのが出版ですし、たとえ公序良俗に反しても、モラルを破るようなものであっても、出すのが出版です。
実際、有害図書として一般書店ではこっそりとしか扱われない、いわゆるエロ本は本邦出版業の開闢以来の底堅い隠れたベストセラーであり、中堅ビジネス出版社などよりエロ系の版元のほうが、よほど立派なビルに入っています。自社ビルも少なくありません。
ただ、立派になると出自を隠そうとしますけど。
また、どこかピントがずれていても、ひとつの意見として出せるのが出版です。理論として整合性があるか、そもそも日本語としてどうだ、という本でも出版は可能です。
ただし、売れる見込みがあればですが。そういう意味では思いつきをそのまま出版することも不可能ではありません。
だから出版では「朝青龍完全擁護」があってもいい。
報道はさすがに思いつきでは、後でまずいことになるので、めったにやりませんが、だからといって正しいとも限りません。
例えば、民主党の小沢代表がテロ特措法の延長に反対する根拠に、国連のコンセンサスがないことを挙げました。
これまでマスコミの論調は、イラク戦争は国連決議を経ていない米国の戦争であるものの、アフガニスタンのタリバン政権に対する攻撃に関しては、国連決議1368に基づく国際社会の協調の上で行っているもの、という流れでした。
読売新聞が社説で、小沢民主党の主張を「政権担当能力なし」と批判したのも、概ねこれまでの流れに沿ったものです。
しかし読売以外に改めて国連決議1368に言及するメディアはありません。結局「国連決議はあったのか、なかったのか」は宙ぶらりんで言及していません。
■トロを扱うマスコミ、骨から出汁をとる出版
実は、国連決議1368は、第一次湾岸戦争の時の国連決議ほどにはっきりとしたものではなく、攻撃を認めるのか認めないのか、解釈次第なものです。
結局、アフガニスタンの戦後処理には、ヨーロッパやアジアから多くの国々が参加しましたので、なんとなく「やっぱりあれは国連が認めたんだろう」という流れになったんでしょう。
出版物には、早くからそうしたアフガニスタン問題を取り上げているものもあります。
この種のテーマの単行本は、あまり書店では見かけませんが(売れてないので)、その内容は、国連決議無視の「米国追従の徹底」を主張するものから、集団的自衛権の問題を論じるもの、小沢代表と同じく国連決議1368を解釈し、米国主導の世界に批判を投じるものと様々です。
単行本は、テーマこそ勢いを重視するものの、中味が同じ趣旨では類書を凌ぐことができませんから、違いを強調します。
米国を褒めまくってもいいし、けなしまくっても構いません。
国際政治を語っても文化論を展開してもいいわけです。
一方、その時の世論の流れで、ことを次々と片付けてしまうマスコミは、後から「それは違うよ」とだれかに言われると対応しきれません。
現場の担当者はわかっているのでしょうが、もう一度引き出しの整理から始める作業は、流れの中で生きているマスコミの体質に合いません。
鮮魚のおいしいとこだけ切り取って売る鮨屋がマスコミで、残った骨から出汁をとったり干物にして売るのが出版、という具合に棲み分けができてますから、長年の慣習で体質も定まってしまったのでしょう。
■報道と公序良俗
メジャーマスコミでも、勢いが昂じて公序良俗やモラルに抵触した報道をすることもあります。ワイドショーに多いですが、ニュース報道でもないわけではありません。
捏造や誤報は、ことの深刻さと裏腹に、実体は取材能力が足りないという、初歩的なことが原因ですが、警察や検察の発表(この段階では疑いです)をそのまま報道し、その後発表内容と事実の食い違いが裁判等で明らかになってもまったく報道しないのは、構造的な問題だと思います。
裁判結果は報道しますが、途中の審議過程にはまったく触れようとしません。
三浦和義氏のように、起訴された段階では「マスコミ有罪」だった人が、ある日突然無罪となって再登場するという、映画でもありえないようなことだって起きます。
『でっちあげ―福岡「殺人教師」事件の真相―』(福田ますみ著 新潮社)という本は、4年ほど前に起きた「教師によるいじめ事件」を、先行報道した新聞やテレビ、週刊誌、ワイドショーにすこし遅れて現地に入った著者が、「なんか変」な様子を現地で感じたことから、すでにさんざん報道されつくした事件を改めてトレースし、もう一度取材していくうちに、報道とはまったく正反対の「真実」にたどり着く、というミステリーのようなノンフィクションです。
時間差攻撃ゆえの記事といえます。ポイントは、裁判が進む過程で明らかになる、報道とは異なる事実認定です。
それで冤罪が証明されるかどうかはともかく、裁判で公にされた事実認定のみを見るだけで、多くの人は報道に疑問を感じるはずです。
しかし「教師によるいじめ事件」を報道した新聞、テレビ、雑誌は、500人の原告弁護団が結成され裁判沙汰になった段階で大騒ぎしたものの、「予定の」報道が一通り終わると裁判審議の経過には触れることもしません。
いや、取材はしているでしょうが、報道をしていません。
ことの真実を本当に明らかにするのは、時間のかかることです。
それに裁判が必ずしも真実を明らかにしないことは、報道の場にいる者なら痛いほどわかっているはずなのに、一個人を勝手に断罪し、気が済んだら後は知らんぷりという姿勢は、そもそも公序良俗にもモラルにも欠ける振る舞いと思います。
■まとめ
今回は、ちょっと他所さまの領域に踏み込んでしまいました。
でも、その時の気分で勝手に騒ぎ、気が済んだら見向きもしないというのは、なにか心当たりがありませんか。
そうです。
それはわれわれ(ひょっとして、わたしとわたしの周辺だけかもしれませんが)のビヘイビアーそのものです。
マスコミの体質は、読者や視聴者がつくったものといえます。
テレビや新聞の姿は、われわれを写す鏡です。
それだけ両者は、互いに強く影響し合う近い位置にいるということなのでしょう。
出版は、とりわけ単行本は、マスコミほどに読者との距離が近くないので、それゆえ苦労もあるのですが、またそれなりに存在意義もあるのだと思います。
ではまた来週。
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