おはようございます。
本多泰輔です。
「沖のカモメと戦場記者は、どこで死ぬやら果てるやら」
会社辞めた時にイラクに行こうかと思いました。
どうせヒマだし、一度緊迫した場所で取材してみたかったからです。
ビジネス書づくりは安穏な仕事ですから、ずっとそういう現場にあこがれてました。
しかし、当時日本人3人がイラクで人質になって、「自己責任」とかでバッシングされたり、人質が殺されたりしたころでしたから、物見胡散の素人が報道記者面して入り込める状況ではなく、そうしたコネクションもなかったので、結局チャンスはありませんでした。
今回のミャンマーの事件では、「自己責任」とか言う輩はいませんね。緊迫しているとはいえ、デモですから、丸腰の民衆に今時銃を撃ち込む軍隊がいるとは、日本人や欧米人には想像できません。
でも、いまでも民衆に銃を撃ち込む国は少なくないんですよね。
旧ソ連邦の一部や中国の奥地、それに南米やアフリカの人達なら、今回のミャンマーでの事態は予測可能だったでしょう。
ミャンマーには、何度か行ったことがあります。
軍政にしては安定している国でした。
それは、駐在している日本人もみんな同じ意見でした。
工業的には貧しい国ですが、基本的に日本と同じく地形と気候に恵まれた国で食糧に窮することがない、だから人心は安定しています。
年配の旅行者は、ちょうど昭和30年代前半の日本をそこに見るような気がするようです。
強盗殺人事件などは、日本ほどではないにせよ、アジアのあの地域、特に隣国タイに較べれば、遥に少ない、というよりほとんどない。
深夜、女性が一人で平然と散歩している国です。ただし都市部ですが(田舎は街灯がなく漆黒の闇なので散歩はできません)。
たかがデモなんだから、やらせとけばいいのに、88年民主化デモのトラウマがあるのか、軍政府はあまりにもデリケートすぎるように思います。
韓国をみならって徐々に着地していけばよいと思うのですが、彼ら軍人はやや鎖国思想に近い頑固な保守で、自分たちが政権から放れれば、古きよきミャンマーが失われると、信じて疑わないところがあります。
その背後には、この国で最も巨額の財産を保有しているであろう寺院もいます。
ではなぜデモの中心に僧侶がいるのか、となりますが、若者は僧侶になるか兵隊になるかという国ですから、日本の僧侶がデモをしているのとは根本的に事情が違います。
日本であれば学生がデモをしているようなものと理解したほうが近いのではないでしょうか。
ミャンマーという国は、世界標準時からずれた時計で動いている奇妙な国ですが、ある種それが魅力的な部分でもありました。
しかし、今回のデモの弾圧は、その悪しき局面がはっきりと露われた事件だと思います。軍政府には早くそのことに気づいてほしいものです。
■実力のない編集者と道連れになると、なにが損なのか
社内の評価が低い編集者がパートナーだと、まず企画が通りにくいということが第一にあります。
著者が、男気(または女気?)を出して、いっちょこいつを男(女?)にしてやろうと、リスクを承知でそういう編集者と付き合うのも、人生の彩りではありましょうが、その場合、著者自身に実力がないと共倒れとなる、ということも視野に入れておくことが必要です。
実力のない編集者というのは、概ね実績の乏しい編集者です(実績はなくとも実力者という政治的な人物もいますが)から、だいたい企画がピントはずれであることが多い。
そのため企画会議のプレゼンにコケてしまい、企画が通らぬという事態になります。
実力のない人の企画をそのまま受け容れて、じゃあ書いてみましょうと進めてみたものの、結局、社内で企画がボツになってしまい、書き損ということになる場合もあります。
企画というのは、本来始めは正体の定まらぬものですから、人によってイメージに差があります。
原稿が上がってくるに従い、その差が明確になってくるわけで、そのため途中で軌道修正したりするわけです。
編集者が始めのイメージを取り違えていたり、軌道修正を怠っていたり、社内(編集長)とのコミュニケーションをきちんととっていないと、出来た原稿が使えない、という悲惨な事態が出来します。
こりゃ、だれが悪いったってもちろん担当編集ですが、もっとも被害をこうむるのは著者です。タダ働きですから。
「書けといったから書いたのに」
と、ごねてみるのもいいですが、多分報われないでしょう。
上品な会社だったら、軌道修正した上で書き直してから出版、下品な会社だと出版自体を白紙にすると思います。
せっかくの原稿が本にならないケースとしては、企画した時はブームだったが書いてる間にブームが終息してしまった、といような時もそうですね。
著名企業の社長の本をつくっているうちに、件の会社が倒産してしまうとか、不祥事を起す、などということもありました。
これは編集者の責任ではありませんけど、不毛な仕事であったことは間違いありません。
■本が出れば成功か
実力のない編集者がつくった本でも売れないとは限りません。
しかし、確率からいうと売れない編集のつくった本はやはり売れない、という不思議な流れがあります(流れは突然変わることもありますが)。
売れなかった原因はともかく、編集者に実力があれば、敗者復活の目もありますが、社内でまた一つ信頼を失った編集者がパートナーだと著者に残されたドアは出口だけです。
本もあんまり売れないと、出版したことさえ無意味になりますから、まず編集者の実力を見極め、相手の企画に乗るかどうかを決断しましょう。
どう考えても売れそうにないテーマだったら、あまり得意ではないと、やんわり断ったほうがよいかもしれません。
とにかく一冊出れば、次につながるチャンスがある、というのも確かに一方の真実ですが、無闇に自分を安売りすることはないと思いますね。
それにしても、どうして企画が外れるのか。出版社永遠の課題ですが、某出版社社長は、豊富(?)な体験から次の点を挙げておられました。
●タイトルの失敗
読者が嫌うタイトルというのがあります。
読者は時代と共に変化するので、これと決め付けることはできないのですが、例えば、M&Aのテーマを『会社の売り方教えます』とタイトルをつけたら売れなくて、『会社の買い方教えます』と同じことを逆の方向からタイトルづけしたら売れた、というようなことがあります。
「会社の売り方」だと、なかなか買いにくいし、社内では読めないですよね。
タイトルにはその他に、「社長はけなすな」「幹部は叩け」という定石があります。
●著者の選び間違い
ま、これは措いときましょう。
●柳の下のどじょうの読み違え
先行してる本が売れてるからと、類書をつくってみたけどさっぱり売れなかった。どじょうがいると思ったのにもういなかった。
つまり市場の読み違えですが、売れなかった理由のほとんどはこれでしょうね。
「個人情報保護法」は売れたけど、どじょうをつかんだのは日経だけ。後発は二つ三つを除くとほぼ不発。
ならば次は早い者勝ちだと「日本版SOX」は急いでつくったけど、さっぱり動かず、「年金」は売れなかったのに「投資信託」は売れている、などなど市場はますます混迷を深めております。
■採用される企画と蹴られる企画の違いは何か
何度も言葉を変えてここで書いていることですから、いまさら言うまでもないでしょうけど、某出版社社長は改めてこう言ってました。
●蹴られる企画
市場が小さいもの。
出版社にもよりますが、テーマが絞り込まれすぎて読者層が狭く、売れても数千部程度しか見込めないものは、やはりやりません。
たくさん売れそうな本しか出さないということですが、その割りにまったく売れない本ばかり出すのは奇怪としかいえません。
ブームが去ったもの。
すでに下火になっている流行ものの場合、人によって見解が異なるとはいうものの、ほぼやりません。
「話しかた」はすでにブームが去って久しいですね。ただ、新しい視点で企画をつくることができれば、十分可能性はあると思います。
一連の「会計」ものはさすがに終息の様子で、最近は奇を衒いすぎて、やぶれかぶれに近いようなものまで出ています。
また、新書だったらOKですが、時事ネタは旬が短いので、なかなかビジネス書としては扱いにくいテーマです。
毎年、11月近くなると「聖書」の本(聖書ではありません)と、「確定申告」の本が一斉に出てきますが、あれも期間限定商品ですからタイミングが重要ですね。
手帳にいたっては、昔は10月、最近は9月から発売されています。
●採用されやすい企画
微妙に、採用されやすい、と表現を変えておりますが、結論はいつもといっしょです。
「はっきりとしたイメージがつかめる企画であること」。
なんだかわからない企画は、売れるか売れないか判断する以前ですから、何の本なのかしっかり主張された企画であることが第一です。
ま、でも、こう書いても多分何のことかわからない人が多いと思います。そこで具体的な例を挙げます。
出版社には、何らかのシリーズを持っている会社があります。
図解シリーズとか、入門シリーズとか、すぐできるシリーズとか、名称はどうあれシリーズとして発行されていれば、シリーズに応じてそれらはほぼ一定のつくりです。
そのシリーズの一冊として企画を立てれば、立てる著者も受け取る編集者も一応共通の土俵の上でやりとりすることが可能になります。
入門シリーズに「ナントカの達人応用編」という企画を立てる人はいないでしょうし、編集者も企画書を見ただけでは何者か釈然としないものでも、シリーズの定型に当てはめれば理解しやすい。
すくなくとも、著者の意図が伝わらないままボツになるというような、哀しいすれ違いは起きません。
以上、三週にわたって某出版社社長のお話を紹介いたしました。
ではまた来週。
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