万感を込めて、おはようございます。
本多泰輔です。
そういうわけで、年末にご案内しましたとおり、これが最後のメルマガです。
3年間もお付き合いくださったかたがたに心よりお礼申し上げます。
毎週見ていただいていたらしいTK社のWさま、たまに誤植のお知らせをくださったT社のOさま、一度もお会いしないままだった版元のみなさま、そして読者のみなさま、本当にありがとうございました。
ところで、メルマガの終了に合わせたわけではないでしょうが、本メルマガではあまり褒めてこなかった共同出版系版元のトップ新風舎が年明けの7日に民亊再生法を申請しました。
続いてわたしも袖刷りあう程度のご縁のあった中堅版元、草思社が9日やはり民亊再生法の申請を行いました。20億と22億、両社の負債総額も似たような額です。
草思社は、『声に出して読みたい日本語』(齋藤隆著)のほかに、過去何冊かミリオンセラーを出した出版社で『清貧の思想』(中野孝次著)は文化的にも存在感の高い本でした。
かように優れた既刊本と有力な著者をたくさん持っている会社ですから、河出書房新社や筑摩書房のようにきちんと復活するであろうと思います。
すでに支援を申し出ている会社も多いと聞きます。
ただ、創業者の個性が色濃く出ていた出版スタイルは変わらざるを得ないでしょう。
草思社の書籍を見ればわかりますが、一貫して保守、その姿勢は産経、文春、新潮よりも際立っていました。ご縁もあったし、時代をつくってきた出版社だけに感慨深いものがあります。
草思社の本は、書店店頭には変わらず陳列されていましたが、往時からするとその動きが沈滞していて、販売の現場では何年か前から「草思社はどうしたんだろう」という声がありました。
目立った販売部数がないので、出版の営業現場の視界からは消えてしまっていたからです。
それにしても新年早々、出版界にとってはショックなニュースでした。
■もうひとつの倒産
一方の新風舎は、何のご縁もなかったので特に感慨はありません。
著者からお金をもらって本をつくる共同出版、協力出版で倒産するなんて、よほど経営が下手だったのか、という気がしますけれども昨年同社にだまされたという被害者団体の訴訟会見が報道されましたし、NHKまで実名は伏せていたものの高齢者の自費出版被害を伝えていましたから、度重なるネガティブ報道でキャンセルも急増したであろうことは想像できます。
売上額52億、そのうち著者からもらったお金が4分の3、4分の1が本の売上だったそうです。
一年間に2800点以上の新刊を出して、本の売上が10億だと新刊1点の販売部数はおよそ370冊!そりゃ倒産しますわな。
売上20億というと、新刊発行点数でいえば、だいたい新風舎の20分の1規模の版元と同等です。
実際には著者からもらったお金40億がありますから、その半分は本の制作費に費消されたとしても手元に20億ほど残ります。
本社を毎月家賃一千万の都心ビルに置いたり、書店を開いたり、派手に広告を打ったりしてましたから、社長の給料を含め著者からもらったお金の半分くらいをこうした費用に当てていたのでしょう。
なんか国民から預かった年金基金をグリンピアや他のことに遣っちゃった社会保険庁を髣髴とさせます。
本をつくるお金が足りなくなってしまって倒産したのでしょうか。
契約時の預かり金は遣っちゃって、実際に本をつくるときは新規に契約した人の預かり金で充当する、だが逆風で新規契約が少なくなり資金がショート、ということだったとしたら、破綻のメカニズムまで年金そっくりです。
いまの高齢者を若者が支えるという年金システムも、若年人口が減ると動かなくなります。
負債額20億というのは、ちょうど2800点の新刊の印刷製本費用に近い数字。目の前にお金があると、つい遣っちゃいたくなるのが人の業というものなのでしょうか。あるいはお金の魔性か。
前にも書きましたが、結局、いまの共同出版・協力出版は考えかたとしては成り立つのですが、システムを支えるには構造的に無理があります。
無理に無理を重ねて、今日まで来ているのですからどこかで破綻するのは道理です。
要するに、売れない本はいくらつくっても売れないし、本が売れなきゃ出版社は立ち行かない。
スポンサーがついたって同じこと、スポンサーをあてにしてスタートしても、どこかで独り立ちする、本を売って食っていく目処をつけなければ会社は残りません。
本が売れるということは読者がいるということ、結局、読者のいない本をいくらつくっても社会的経済的に意味がないのです。
果たして共同出版でどこまで売れる本がつくれるか。
業界の健闘を見守りたいところです。
■変わる時代と編集者
いまさらですが、本多泰輔という名前はここだけのペンネームです。
本名は☆#?♪◇&%‘@といいます。
パートでCIAのエージェントもやっています(ウソです)。
本名だと世間を狭くする恐れがあるので、メルマガを始めるとき、何か適当な名前はないかと考えているうち、出版支援情報のメルマガなのだから、「本出す助け」を適当にアレンジして本多泰輔としました。
たまに「本多さま」などとメールが来るとあて先違いじゃないかと驚いたりしました。
スタートさせるときは、会員制にして出版社の部屋「著者求む」と著者が出版社にアピールする「企画あります」の部屋などもつくり、アクティブにやろうかと考えていたのですが、セキュリティの問題と立ち上げの手間を考えた段階で面倒になり、とりあえず無料のメルマガだけを始めました。
何かを始める時は終わるときのことを考えなければならない。
その昔、先のことを考えずに始めた勉強会が止めるに止められず、大した成果もないのにずるずると続けなければならなかった反省から、新しいことをやるときにはいつも辞めることの形を考えるようにしています。
このメルマガもだいたい100回を一区切りにしようと、漠然と考えていたのですが、たまたまその時期に仕事が集中したものですから、ついうっかり100号を過ごしてしまい、丸3年を迎える今号をゴールといたしました。一年延長です。
たった3年の間でしたが、このメルマガを書くために改めて出版業界を見直したとき、いままでずいぶん業界に無関心だったことに気がつきました。
出版界はけっこう奥が深い。
冒頭触れた共同出版業界についても、ちょっとは知ってるつもりだったのですが、知らないことのほうが圧倒的に多かったですし、出版市場の新刊の発行点数と売上高のアンバランスな数字を見たときは、これはやばいと慄然といたしました。
振り返ってみると、この3年間で大きな変化は、新書、文庫の増加、企画面ではネット依存、ブログから本というスタイルが出てきたことでしょうか。
編集者が企画を求めてブログからブログを渉猟するなどということは、わたしはやったことがありませんし、4年前にはやっている人間さえ見たことがありませんでした。
当時は、せいぜい企画を求めて書店から書店を渉猟する程度です。
よくも悪くもそういう時代なのでしょう。
編集者もネット依存の時代です。
ここでは何度か編集者の生態について書きました。
生態といっても職業的な性格のようなものをいくつか紹介したにすぎませんが、新人著者にとって、差し当たってのハードルは編集者ですから、彼らの行動傾向や弱点を知ることは著者にとって出版社攻略の第一歩です。
編集者である以上不易な部分は、昔もいまも変わりません。
また編集者だってサラリーマンですから、組織の事情にコントロールされて動くことも昔と同じです。
しかし企画を求めてネットを渉猟する編集者というのは、わたしにとってUNKNOWNな存在、そもそもブログで展開されている情報量では書籍には少なすぎるはずです。
この情報量で本にしてしまってクオリティが保てるのか、他人事ながら気になります。まあ、売れてんだからいいんでしょうけど。
あんまり濃いのも読者が気後れしますけど、それにしても全体に薄味なものが増えているように思うのは、すでに時代遅れになっている証左なのかもしれません。
■出版社と編集者の本質
出版社は本をつくり本を売って成り立っているわけですから、常に売れる本を求めています。
編集者は最初のうちは自分の好みのものをつくりたがりますが、しょせんは組織の一員、サラリーマンですから時間とともに会社の要求に合わせて企画を審査するようになります。
企画を分ける基準はただひとつ、売れるか売れないか。
とはいえ、売れるか売れないかが本当にわかる編集者に出会うことは、宇宙人に出会うより低い確率ですから、あなたが会うすべての編集者は読者の求める企画はなにかといつも悩んでいます。
読者の求めるものがなんなのかは、読者に聞ければいいのですが、読者も忙しいのでどんな本が欲しいかなどと普段から考えてはいません。
いきなり聞かれても「宝くじで3億円当たる本」とか「年収1億になる本」とか「女にもてる本」とか、そういう答えが返ってくるでしょう。
こうした本能的なニーズは不変のテーマで古より今日まで存在します。たぶん未来もそうでしょう。
ただ、あまりに多くの類書があるため、そのままでは企画になりません。成功願望を叶えるにために「そうじをしなさい」となれば企画です。「日記をつけろ」「手帳をつかえ」というのも企画です。
一方、ニーズには成功願望のような顕在的なものと、本が出てはじめて顕在化するような潜在的ニーズもあります。
これだけ高齢者人口が増え、社会保障に対する不安が蔓延し、周辺諸国の台頭の脅かされていれば、社会的にも潜在的なニーズがあるはずです。
それがなんなのかは、仮にわかってもここではいいませんが、時代が変わればそこに企画がある、出版は不安も希望も企画に直結させることができるのです。
ゆえに昔から出版社は「常に宝の山の上に立っている」といって、自らを鼓舞してきました。
立ってるだけでは仕方がない、掘ってみないと宝かガラクタかわからないんで掘ってみると、ま、だいたいガラクタのほうが多いというのもまた現実なんですけどね。
■ビジネス書、もうひとつの原点
ビジネス書は、いわば「べんり情報源」が基本形だと思います。
「べんり情報源」というのは、本来実用書という範疇ですが、実用書というとビジネスから生活まですべてに及んでしまうので、ビジネス関係の「べんり情報源」をビジネス書と個人的にはとらえています。
普通ビジネス書は、法経書の系統でとらえる人のほうが多いと思います。アカデミズムのほうがかっこいいですから。
しかし数多のビジネス書を歴史的に見てくると、やはりその原型は「べんり情報源」であるように見えます。
会計学をわかりやすく、経済学をわかりやすく、経営学をわかりやすく、という図解入りでやさしく解説するという「理解中心」だけでなく、「使ってべんり」という基本的な視点が必要だと思います。
かんたんに応用が効く「泥臭さ」こそはビジネス書の原点でしょう。
垢抜けない本ですから、ミリオンセラーはあまり期待できませんが、底が割れるような失敗もないのがビジネス書のよいところ(だった)。
近頃は雑学ブームのようですが、ビジネス書は衒学のための本ではなく、使えてなんぼのもんだと思います。
知って行わざるは之すなわち知らざるなり。むしろ理論は知らなくたってできるならばそれでいいという粗っぽさが、かつてのビジネス書にはありました。
いっぺん企画面でも先祖がえりにしてみてはいかがかと思います。
■最後の口上
最後にもう一度、こんな雑な内容の文章を長らく愛読していただきました読者のかたがたにお礼を申し上げます。
通常休刊のあいさつでは、だいたい「いつかまた装いを新たにお目にかかりたいと思います」とか、再開をにおわす文言で締めくくるのですが、正直を鉄の編集方針とする本メルマガではそういう欺瞞耕作は行いません。
たぶんもうお目にかかることはないだろうと思います。
ですがひょっとして、いくらかまともな情報が貯まって、さらに何かの気まぐれで突然やる気になったら、いつかどこかで再開し、はからずもお目にかかることがあるやもしれません。
その時、「あいつウソつきやがってまたやってんじゃないか」といわれないように、わたしも定例のあいさつを述べさせていただきます。
いつかどかで、また装いを新たにお目にかかりたいと思います。
それではみなさま、さようなら。
出版界は、いまこの時もあなたの企画を待っています。
・・・せめて最後くらい誤植なしでいきたかったけどなあ・・・
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