おはようございます。
本多泰輔です。
ペットボトルのお茶を飲みながらこのメルマガを書いていて、ふと思ったのですが、いまオフィスで朝と3時にお茶を入れてくれる会社ってあるんですかね。
たぶんほとんどないと思いますけど、ひょっとすると昔ながらの独法あたりだと、まだそういう文化が残っているんでしょうか。
いや、むしろ独法のほうがけっこう女子職員がはばをきかせていますから、そういう習慣はすでに過去の話になっているかもしれませんね。
職場で女子社員がお茶をいれてくれるという経験は、もはや30代以下の人にはないのかもしれません。あれはあれでけっこうストレスを感じることが多かった。
特に直前に文句をつけてた女子社員がお茶の当番だったりすると、なかなか脅威でしたね。一服盛られてるかもしれないし、怒り込めていれたお茶かもしれない、かといって飲まずに置いておくのもイヤミだし、なんかめんどくさい習慣でした。
だいたい机の上はいつも原稿が散乱していて、お茶なんて置く場所もないわけだし、早くやめりゃあいいのにと思っていました。
しかし、いまやお茶を入れてもらった経験のない人が増えてくると、なにか貴重な体験であったような気もしてきます。
さて、今回のお題です。
■プロは読者を意識する
プロの作家とアマチュア作家というと、小説家みたいなので、あえて語呂のよくない著者と言う名称をつかいました。
プロの著者とアマチュアの違い、それはなにか。
結論から言うと、プロ著者とアマチュア著者の違いは、読者に読んでもらうために書いているのか、自分が書きたいことを書いているのかの違い、という風に考えています。
読者のいる原稿を書いているのがプロで、読者不在の原稿を書くのがアマチュア。
よくカルチャーセンターなどの文章教室では、まず書きたいことを書きましょうという指導をしていますし、作家のなかには書きたいことを書いた結果、読者に支持されたという恵まれた人もいます。
そういう指導や主張はウソではないと思いますが、読み手のことを考えずに書く自分だけにしかわからない文章というのは、好意的に言っても未完成原稿、率直に言うと「メモ」にすぎません。
わたしは体験的にそう思っています。
市販本と自費出版本をわけるのもこの点で、大雑把に言うと自費出版本にありがちなのが「独りよがりの自己主張」で、それもなぜそういう主張に至ったのか背景が省略され、他者がその主張をどう評価しているのかにも触れられない。
読者としては「ああ、そうですか」としか言いようのない本が、自費出版には多い。
ときどき市販本でもありますけどね。たいてい有名人の本で。
さて、読み手のことを考えないまま筆を進めるということは、伝えようという意思、働きかけが欠如しているということにほかなりません。
伝える技術以前に伝える意思がなければ、伝わるはずがないし、それは言葉の持つ力を半減させることです。
ゆえに当然、著者の一人よがりな意見さえ読者に伝わることはない。結局不毛なのです。
本として、機能不全に陥ってる文章、つまり悪文とは、むずかしいことをむずかしく書いてある文ではなく、むずかしいことも簡単なことも、伝えようという意思なく書いている文章であろうと思います。
だれになにを伝えるか意思決定をしていない。もうすこしきつい言い方をすれば、なにを伝えるべきかがわかっていない本です。
本を書くときに大事なのは、文章の技術や伝える技術よりも、まず伝えようとする意思であろうと思います。
■見えない読者を見るセンス
たぶんこの小見出をつかうのは二度目ですね。
伝える意思の定まらない本は、教科書的とか教条主義的、あるいは独善的という風に見えます。
読後の感想としてよくいわれる、目からうろことか、感動というのはある種の共感がベースですから、何書いてあるんだかわからないという本では、永遠に読者の支持は得られません。
ですから、原稿が機能不全に陥る原因は、技術の問題というより書き手の意識の問題によるところが大きいのではないか。
つまり始めからだれかに伝えようとして書かれた文章ならば、たとえ下手であっても下手なりに伝わるものがある。
しかしながら、伝える意思に欠ける原稿は、いくら経験を重ねて文章がこなれてきてもよくはならない。
スタートラインで方向を間違えているともいえますが、どうやら個性によるところが大きいように思えます。いわゆるセンスですね。
研修や講演、あるいは指導であれば相手は目の前にいますから怪訝な表情をすれば、それ相応に話して方も軌道修正をいたします。聴き手のほうでも質問と言う形で、理解を深めることができます。
しかし、本は一方通行ですから、よほど書き手のほうが神経を使わないと相手には伝わりません。
神経を使う作業ですから、続けているうちにしんどくなります。そこで読み手のことを考えるのをやめ、書きたいことだけ書くようになると、楽なんですが、それではプロ失格です。
プロの著者である以上は、最低限のハードルは越えなければいけません。わたしは、それが自分以外の誰かである読者のために書くということであろうと思います。
自分以外の誰かという漠然とした読者のイメージを描けるかどうかもセンスですが、はっきりと自分以外の誰かを定めて書いても一定の効果は顕われます。
友人でも知人でも家族でも社員でもいい。
城山三郎の翻訳で『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』というベストセラーがありましたが、この本のように実の息子を読者として書かれた本でも、十分に普遍性をもつことはできます。
日米でベストセラーになったのがその証左です。
■だれになにを伝えるのかを追求
そういうわけですので、実はプロ著者になるのは、そんなにむずかしいことではありません。伝えようとする意思があれば、その瞬間にアマチュアからプロの領域に飛び込んだことになります。
あとは自分が伝えたいことを見失わない、本当に伝えたいことは何なのか追求することを怠らない。
文章構成や表現力はトレーニングの積み重ねですから、やってるうちにだんだんうまくなってきます。しかし、スタートラインで方向を誤ると、永遠にゴールにたどり着くことはできません。
本当に伝えたいことはなにかの追求をやめないということは、最初に書いた本のテーマの切り口が変わっていくことです。
ですから同種のテーマでも次々に新しい切り口の本が生まれることなります。著書を何冊も出してこそプロですから、その点でもプロらしくなるわけです。
ぜひプロを目指してください。
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